野菜の皮や昆布の出がらし、
余りすぎた大根の葉っぱ——
発酵を知ってから台所が変わりました。
「命を使い切る」
とは捨てないことではなく、次へ送り出す場所として台所を使うこと。
暮らしの実例とぬか床の話をお届けします。
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発酵食品を手作り、田舎暮らしを実践している椿留美子です。
東京から家族で移住、のんびり・・と思いきや、全く忙しい!
全然スローライフじゃないよ〜、と思いながらあたふたしています。
田舎暮らしの知恵と奥深さをお伝えしたいと
東京と田舎を行ったり来たりしながら発酵教室を開催しています。
毎朝メールより音声配信をしています。
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野菜の皮も出がらしも、全部ごちそうに変わる——発酵が教えてくれた”命を使い切る”という哲学

大根の皮、剥いていますか?
にんじんは?じゃがいもは?
私は基本的に剥かないんですよ。
「えっ」と思われるかもしれないんですけど(笑)
発酵を暮らしに取り入れるようになってから、台所の意味が変わりました。
野菜の皮、昆布の出がらし、農家さんからいただきすぎた大根の葉っぱ。
それぞれが、どこへ行けば一番輝けるかを考えるようになった。
今日はそんな話をします。
実家では皮を剥かないのが「当たり前」だった
私は野菜の皮って基本的に剥かないものが多いです。(むくものもあります!)
大根も、にんじんも、じゃがいなどは全部そのまま使います。

都会に出て「むくんだ」と驚いた日のこと
そもそも実家では、母が向かないのが当たり前でした。
だから剥くということを知ったのは、都会に出てから。
誰かと一緒に料理をしていたときに、にんじんの皮を剥いているのを見て、「むくんだ」って(笑)
ちょっとしたカルチャーショックでした。
自然農の野菜は皮に栄養がある
自然農で作られた野菜って、皮のところに一番栄養があると言われています。
泥をしっかり落とせば、そのまま料理に使える。
それが普通になってくると、今度は「わざわざ剥く」ということのほうが不思議に感じてくるんですよね。
皮ごと食べる、というのは特別なことじゃなくて、
ただ「もともとの状態で食べる」ということだと思っています。
皮を剥いたら、その皮もごちそうにする
ただ、たまに大根の煮物や大根ステーキを作るときは皮を剥くことがあります。
そのときの私の定番が、大根の皮のきんぴらです。
大根の皮のきんぴら——本体より美味しいと言われることもある

ごま油でさっと炒めて、醤油とみりんで味付けする。
それだけの、本当にシンプルなものなんですけど、
「本体の煮物より美味しい」って言ってもらえることが結構あって(笑)
発酵クラスのランチに出すこともあります。
「捨てるはずだったもの」がいちばん喜ばれたりするの、面白いですよね。
出汁をとった後の昆布は佃煮に——「出がらし」と呼ぶのがもったいない
昆布もそうです。
出汁を取ったあとの昆布、「もう使い終わったもの」として捨てていませんか?
私は基本的に、お味噌汁に入れっぱなしで食べてしまうか、細かく刻んで佃煮にします。

出汁を取ったあとの昆布にも、うまみはまだちゃんと残っていて、刻んで煮詰めるとご飯に合う一品になります。
「出がらし」って呼ぶのがもったいないな、と思います。
大根の葉っぱ問題——田舎と都会のすれ違い
これは私がここ数年でずっと感じている課題の話です。
都会では欲しがられ、農家では余りすぎている

都会のスーパーで売っている大根って、葉っぱが切り落とされていますよね。
だから「大根の葉っぱが欲しい」という方が、生徒さんの中にも実は多いんです。
栄養価も高いし、炒めても美味しいし、漬けてもいい。
でも農家さんのところへ行くと、葉っぱがありすぎて、もう畑に置きっぱなし。土に返している状態なんですよ。
山梨に移住してから、「勝手に持って行っていいよ」と言ってもらえることが何度もありました。
子どもたちが飽きた話と、緑のカレーの実験
最初のうちは嬉しくていろんな料理を作りました。
でも毎日炒め物にしたり、ふりかけにしたり、漬物にしたりしていると、子どもたちが飽きてくる(笑)
「また大根の葉っぱ?」っていうやつですね。
最終的には、ミキサーでガーっとして緑のカレーにしたこともありました。
大根の葉っぱはそれでもいけるんですけど、一度カブの葉っぱでやったら、ちょっとまず過ぎて(笑)
カブの葉っぱカレーは二度と作らないと心に誓いました。
ありすぎるものは土に返す、それも「命を使い切ること」

だから今は、たくさんありすぎるものは土に返すということもしています。
もったいないと思うかもしれないんですけど、土に還って、また栄養になっていく。
それもやっぱり、命を使い切ることの一部だなと今は思えています。
田舎にはありすぎて、都会にはない。
桃農家さんとのお付き合いの中でも、同じようなことを感じてきました。
出荷できない桃——傷があったり形が不揃いだったりするもの——は、忙しい収穫期にはジャムにする余裕もなくて、土に返すしかない時もある。
その現実を近くで見てきたぶん、
「捨てることの意味」
をちゃんと考えたいと思っています。
ぬか床と台所の循環——土から来て、土へ還る
発酵の話でいうと、ぬか床の捨て野菜の話も同じ感覚です。
捨て野菜をぬか床に入れっぱなしにする、私流のやり方

ぬか床を育てるとき、野菜の根っこや外の皮など、くず野菜を入れていきますよね。
本来は入れ替えるものなんですけど、私はわりと入れっぱなしにしちゃうことが多くて(笑)
捨て野菜が一度ぬかに入ると、発酵の菌と混じり合って、もうぬかの一部になっていく感じがして。
土に帰っていくような感覚で、床の一部になっていく。
ちょっとものぐさな理由もありますけど、
まあ、いいかなとゆるっと考えています。
コンポストが発酵で堆肥になり、また畑へ戻っていく

Screenshot
入れ替えるときはコンポストに入れます。
コンポストも発酵の力で分解されて、堆肥になって、また土に戻っていく。
台所から出てきたものが、発酵を経て、また畑に戻っていく。
この循環がすごく気持ちいいんです。
「命を使い切る」って、厳しい話じゃない
全部食べなきゃいけない、一滴も捨てちゃいけない——そういう話じゃないんです。
そんなふうに考え始めたら、暮らしが苦しくなってしまう。
ゆるっと考える——料理にするか、ぬか床か、コンポストか
ゆるっと、「この食材が次にどこへ行けば一番輝けるか!」と想像してみる。
料理になるのか
ぬか床に入るのか
コンポストで土になるのか。
それだけのことかな、と思っています。
台所は「捨てる場所」ではなく「次へ送り出す場所」

発酵を知ってから、台所がその橋渡しをする場所になった気がしています。
捨てるというより、次へ送り出す場所。
大根の皮のきんぴらも、昆布の佃煮も、ぬか床の捨て野菜も——
全部、「次へ行く場所」を台所が橋渡ししている。
そう思うと、台所に立つ時間が少しだけ豊かに感じます。
発酵は料理だけじゃなく、パンをおいしくするのはもちろん
お菓子も変えてしまうんですよね。
実際に教室の現場にいて感じます。
スイーツにも発酵を活かすことができる!
人間の生み出す「食」というものには
「命を使い切る」発酵の哲学は流れています。
あなたの台所は、どんな場所ですか?




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